山岸俊男さんの問題意識は、「日本の社会は(同質なもの同士で)安心していて、(異質なものの中から選別して)信頼していく力量に欠けている」というものであり、結論として、「日本社会は安心に安住してはいけないのであり、信頼社会に転換せよ」という御主張です。
しかし、その主張はわかりにくく疑問があります。「同質なもの同士が、たとえ自分たちが間違っていても異分子を排除して安心しようとする」という行動の基本にあるものは、自分にとって楽であるから現状に安住したい、という自分達の既得権を守ろうとする心理です。
つまり、この問題の本質は「自分の地位や利益を守るために」「正しさ」を無視しようとする集団エゴイズム」が、ともすれば、日本の学界や企業に巣くっているという欠陥であると思います。この欠陥のために、正しい現実や成果を認めようとせず、社会の発展を遅らせて、社会の人々を苦境に陥らせるということへの「公的な憤り」「公共心」が共感できるポイントです。従って、本当の問題は「安心VS信頼」ではなく「集団エゴイズムVS公共心」ではないかと思います。
ダニエルゴールマンの「SQ」などにあるように、また「発達心理学」の基本にもあるように、人間は、家庭内の安心という中で、他人への信頼や社会への適応力が育つ。また職場における社員の環境も全く同じであり、安心してこそ、お互いに協力して学びあい、教えあい仕事にも専念し成長を目指すことができるものです。それは「虚妄の成果主義」などの産業心理学理論と実験成果でも明らかな事実です。
それなのに、山岸理論は、安心の構造を破壊することで、自立した個人としての「信頼の構」ができると説く。これは危険で間違ったメッセージであると思います。ヘーゲルなどが、近代国家と自由な個人である国民の間に、企業などの中間組織・共同体、いわゆる「市民社会」があるべきであり、それなくしては、個人は孤独な疎外された存在となり、大衆社会、全体社会が現出すると警告しているように、山岸先生などのように「近代的個人」「自立した個人」を、理想化し夢想することは、企業や家庭などの共同体を破壊し現代人の疎外を深刻化させてしまうように思えてなりません。
正しくは、家庭や企業や学会などの組織が「集団エゴイズム」に陥ることを批判すべきであり、「公共的な使命」を忘れない、そのためにも、異分子を排除するのではなく、それとのコミュニケーションを大切にし、新たな「信頼の絆」の形成に取り組むこと、ではないかと思うのですが。
(レビュー日:2007-12-24)